『 近江路を行く (7) 武佐宿  』

五個荘は近江商人発祥の地といわれるところで、立派な商人屋敷が残っていた。
老蘇の森は、地が割れ水が湧き出て、人の住めるところではなかったが、 石辺大連が神の助けで、
松、杉や檜を植えたところ、大森林になったといわれる。
武佐宿は八風街道の追分であり、商売の盛んな八幡への交通の要路にあたるところである。


愛知川宿から 武佐宿へ

不飲橋交差点 平成16年5月25日(火)、愛知川宿を探訪して、その足で武佐宿に向う。  愛知川宿の西端の竹平楼を過ぎると、不飲川が流れている。 水の量が少ないので、気がつかないほどの川だが、中山道国道と合流する交差点には、不飲橋の標示があった 不飲(のまず)川は、井伊直弼が安政六年に通船水路を開削し、年貢米の運送に使ったという川で、東海道本線が開通するまでは、人の輸送にも使われ、琵琶湖を横断し、大津への近道だった、という。  愛智川郡史には、 「 不飲池より発し愛知川を経て、柳川に至り、湖に注いでいる。 不飲池は往古にこの池で激戦があり、池水、血を流すに至る。 地人忌みて之を飲まず、よって名づくという。 或いはガスを含む毒水ならん。 」 、 とあるが、
実際には湧き水が出ていたようで、毒水が流れていた訳ではなさそうである。 
御幸橋 「 平将門が身の汚れを洗い清めたため、誰もこの池の水を飲まなくなった 」 と、いう言い伝えもある。  現在は、 湧き水もなく、小さなため池のようになり、とても飲めるものではないと 、いうことだった。  旧中山道はここで国道8号線に合流してしまった。 交差点の先の地名、祇園町(旧町名)はこの先の橋の脇にある祇園神社による。  十五分ほど歩くと、道は少し上りになり、右手に牛丼の吉野家 、 その先に御幸橋が見える (右写真)
昭和三十六年、国道8号の開通に伴い、愛知川に架けられたものだが、明治十一年に架設された木橋が、明治天皇巡幸を記念して、 御幸橋 と名付けられたので、その名を踏襲した。 木橋からは四代目になる橋である、 とあるが、それ以前の橋は、 むちん橋 と呼
ばれていた。  江戸時代、幕府の政策で橋を架けることを原則として禁じていたので、渡し
祇園神社と常夜燈 か、川を歩いて渡っていたため、水難事故は絶えなかった。  文政十二年(1829)、地元の成宮氏と五個荘の四人が彦根藩に申し出て、天保弐年(1831)に完成させた橋が無料であったことから、そう呼ばれた。  弘化三年(1846)には、川を照らすことにより旅人の水難防止と安全を守るため、地元の有志が金を出し合って、高さ4m35cmの大きな常夜燈を建てた。  橋はその後、何度も場所を変えたようで、そのたびに常夜燈の位置も変わったらしいが、現在は 祇園神社境内にある (右写真)
国道に架かる橋なので、車の通行量が多いが、歩道帯は片側にしかないので、その道を
太神宮常夜燈 歩いた。  愛知川は予想した以上に川巾が広かった。 橋の向こうには鈴鹿連山が連な
って見えた。 新幹線の鉄橋もあり、新幹線があっという間に消え去るのに、橋を渡る近江鉄道の電車は、とぼとぼというくたびれた感じで、走りすぎていった。  橋を渡ると、近江商人の発祥の地といわれる、 五個荘町(ごかしょうちょう)に入る。 橋を渡ったところですぐ左折し、川沿いの道に入り、少し歩くと、 太神宮 、その下に、 講中 と刻まれた常夜燈があった (右写真)
旧中山道はここで右折し、狭い道に入る。 この道は、国道とほぼ平行しているが、車の通
東嶺禅師石柱 行はほとんどなく、人も歩いていない道だった。 このあたりは静かな集落で、かっては茅
葺だったと思われる、トタン屋根の軒に火災予防の 水 と書かれた、魔よけが目に付いた。 
家の構造からは農家のように思われるのだが、どうであろうか?
「 東嶺禅師御誕生地 」 と、刻まれた石柱があった (右写真)
「 東嶺禅師は、京都妙心寺の高僧・白隠禅師の弟子で、東嶺円慈禅師のことで、滋賀県
日野町川原の 臥竜山妙楽寺には、禅の大悟を得たという遺跡や開悟偈文(げもん)が残る。 
生涯の大半は静岡県三島市の竜澤寺(りゅうたくじ)で送り、晩年、この地に戻り、齢仙寺で
小幡神社御旅所 なくなった。 」 と、いう人物である。  少し歩き、近江鉄道の踏み切りを渡ると、
「 聖徳太子御旧蹟法皇山善住寺 」 と、刻まれた石柱があった。  その先の右側には、
小幡神社御旅所と刻まれた大きな石柱が建っていた。 (右写真)
このあたりに、御代参街道(ごだいさんかいどう)の道標がある筈と探すが、分からない。
左右をきょろきょろ探すが、分らないので、外に出ている人に聞いたが、分らないという。 
少し行くと、変則的な三叉路に出逢った。 旧中山道は右だが、左に行く道もあり、道の
道標 二又の家の垣根の中に、探していた、道標があった。 
5mほど手前の家人に聞いたのに 知らないといわれた、道標である (右写真)
これは、 御代参街道の追分 を示す道標で、 「 右京みち、 左いせひの八日市みち 」 
と、刻み込まれている。  御代参街道は、多賀から伊勢への近道で、八日市や日野を経て
東海道の土山宿に続き、伊勢や多賀大社への参詣道である (詳細は巻末参照)
このあたりは、もとの小畑村である。 道はまた、三叉路になるが、ここも右折する。 
小幡神社御旅所 この角の土地はポケットパークになっていて、街道の入口にあったと同じ、太神宮の
常夜燈があった (右写真)
歩いて行くと、右側に古い茅葺に家があり、道はその先で左右の道に突き当たる。 
ここで左折するが、これから先は五個荘の近江商人の家があるところである。 
道は広くなり、左側には川が流れていた。 
右側に町役場が見えたので中に入り、観光パンフレットをいただく。
中山道分間延絵図 中山道は直進するのだが、折角来たので近江商人の屋敷があるところにみることにした。
道の左側に、中山道分間延絵図のレプリカがあったので、それを見て、出発した (右写真)
お堂の脇の道を入り、国道を越え、小学校で左折する。  左側に、 てんびんの里文化学習
センター の建物が見える。 その3Fには 近江商人博物館 があるが、素通り。 
金堂という集落は、湖東平野を代表する農村集落で、加えて、近江商人が築いた意匠の
優れた伝統的建造物群として、平成10年12月に国の重要伝統的建造物群保存地区に
選定されたところである (詳細は巻末参照)
大城神社 そこに向かう。 文化学習センター駐車場の先を右折し、歩いて行くと、道幅が広がり、左側に数軒の立派な屋敷が見える。 これらはみな元近江商人の屋敷である。
その先の右側に、 大城神社があった (右写真)
「 西暦621年頃、厩戸皇子(聖徳太子)が金堂寺を建立した時、護法鎮守のため、東部にあたる大城の地に社檀を設けたのが始まり。 嘉応弐年(1170)に現在地に社殿を移転した。 」 という神社で、 高皇産霊大神 と 菅原道真 が主祭神である。
( 社伝 (大城神社の歴史) は巻末参照 )
安福寺 対面には、 日若宮神社 があった。
少し行くと、金堂の中心地に到着。
右側の空き地奥にあるのが、 金堂始まりの寺 といわれる 安福寺 (右写真)
間口三間奥行四間のお堂で、境内には五輪塔があった。 
右折すると、道が狭くなり、寺前・鯉通りである。  道脇の掘割には、カラーの花が咲き、錦鯉が泳いでいる、のどかな雰囲気のところだった。 
五個荘町は近江商人発祥の地で、金堂からも多くの商人が輩出し、明治十三年(1880)に
旧外村繁家 は集落の三分の一に当たる六十七軒が呉服、太物などの繊維商で、うち、十三軒は県外
に出店を持っていた。 この通りには、近江商人屋敷の 旧外村繁家 、 旧外村宇俵兵衛家 などがあり、500円なりで見学できる。  商人の本宅は広大な敷地を板塀で囲み、内部に切妻や入母屋造りの主屋を中心に数奇屋風の離れや土蔵、納屋を建て、池や築山を配した大きな日本庭園をもつ。  近江商人屋敷・旧外村繁家は、澪標(みおつくし)の作家・外村繁の生家で、 外村繁文学館 になっている (右写真)
外村宇俵兵衛家はその本家にあたる。
弘誓寺 道を戻ると、突き当たりに 弘誓寺(ぐぜいじ) がある (右写真)
山門は元禄五年(1692)の建立で、本堂は入母屋造り、本瓦葺き、間口十八間、奥行二十間で、国重要文化財に指定されている。 なお、隣に、 淨栄寺 がある。
街道に戻る途中、 観音寺へ1.5kmの表示があった。 
右折して進めば、突き当たりが 観音寺山の下、 石寺の集落に至る道である。 
石寺集落は、近江源氏の佐々木氏が守護として勢力を張った所で、山の中腹に観音正寺がある。 西国めぐりの寺院の一つだが、本堂は最近の火災で燃失したようである。 
常夜燈と農家 観音寺城は、永禄十一年(1568)、織田信長の上洛を阻止すべく戦った城主、六角承貞(佐々木氏の分流)の落城により、寺を含めてすべて焼き尽くされた。 
旧街道に戻ると、その先は川並地区。 大郡神社の石柱には、東郷平八郎謹書とあり、鳥居や常夜燈が見えた。 
その先の茅葺屋根の家の前に、立派な金比羅権現常夜燈が建っていた (右写真)
道脇の農家には、切妻あるいは寄棟造りの茅葺屋根が多く残っていた。  木曽路、美濃路そして近江路とあるいたが、これだけ立派な茅葺屋根が残っているところはない。
国道に戻る そのまま道なりに進み、国道と合流して、すぐに右の清水鼻の集落に入る。 清水鼻は立場
茶屋があったところで、一里塚もあったようであるが、茶屋がどこのあったのかの形跡もなく、
一里塚も残っていない。 その先の三叉路を左折して国道に戻った (右写真)
なお、そのまま直進すると、石寺集落にでられる。 国道には相変わらず大型トラックが走って
いて歩きずらいが、がまんをして歩く。  新幹線のガードをくぐりぬけて、少し行くと、左に入る
道がある。 これが旧中山道だが、信号がない上、横断歩道もなく、車がひっきりなしに来る
奥石神社石柱 ので怖くてなかなか渡れなかった。  渡ったところに、 鎌宮奥石神社の案内板 と 中山道東老蘇の石柱 があった。  少し歩くと、右の奥に森が見え、入口には、奥石神社の石柱と常夜燈が、森に向かって並んで建っていた (右写真)
老蘇の森 (国史跡) は、  「 2千年以上の前の孝霊天皇の時代には、この地は地が割れ水が湧き出て、人の住めるところではなかった。 石辺大連が神の助けで、松、杉や檜を植えたところ、大森林になった。 」 と、伝えられるところである。 
昔から文人の間で有名な森で多くの人が訪れている。
奥石神社 東関紀行の著者は、この森を訪れた印象を「 おいその森という杉むらあり。 下草深き朝露の、霜にかはらむゆくすえも、はかなく移る月日なれば、遠からずおぼゆ。 」 と、綴り、  
   『  かはらじな  我がもとゆひにおく霜も  名にしおいその 森の下草   』
と詠んでいる。  奥石神社は、山を御神体とする原始的根元的神社で、延喜式神名帳にある古く格式のある式内社である。  本殿は天正九年(1581)に建てられた檜皮葺きの豪壮なもので、国の重要文化財に指定されている (右写真)
「 当時安土城の建設をしていたので、信長の寄進によるともいわれるが、その可能性が高い。 」 と、町教育委員会の説明にあった。
本居宣長歌碑 境内には、 賀茂真淵 と 本居宣長(右写真)の歌を刻んだ歌碑が建っていた。
『 身をよそに いつまでか見ん 東路の 老蘇の森に ふれる白雪 』 (賀茂真淵)
『   夜半ならば  その森の郭公  今もなかまし  忍び音のころ  』 (本居宣長)
神社の境内には誰もいなくしーんと静まり返り不気味なくらいだった。  上を見上げると、大きく成長した杉の巨木が聳えていた。  しかし、老蘇の森も、今や、奥石(おいそ)神社の境内とその隣接地が残っているだけになってしまった。  それでも幽玄で、手が加えられていない、自然のままなのはよかった。
轟橋 森を出て、街道を西に向かう。 小さな橋の傍らに立派な案内板があり、 轟橋 という名で
あることと、 轟地蔵 の由来が書いてあり、隣に、常夜燈が建っていた (右写真)
轟地蔵は、小幡人形の可愛い千体仏で、安産祈願の地蔵である。 現在は福生寺にある
が、中山道分間延絵図(1806年)ではこの橋に描かれていた、とあった。 市町村や集落
により、このように丁寧に説明してくれるところと何もないところとあり、千差万別なのだな!
と、思った。 少し先には、 「 中山道大連寺橋 」 の石柱があり、 内野道の表示があった。 
鎌若宮神社   小学校があり、 老蘇っ子マップのある絵図が掲示されていた。 下校時の子供達から
元気な挨拶を受けた。 右の家並みの奥に林が見えると、 西老蘇地区である。 
大きなお宮があり、 鎌若宮神社 である (右写真)
東光寺は、豊臣秀吉の祐筆だった 建部伝内の寓居があった跡で、 伝内堂には、元禄八年
造立の木像が安置されている。 寺は清水鼻にあったが、観音寺城落城後に、寺の名と本
尊がこの寺に移された。 
牟佐神社 30℃くらいの気温のうえ、西日が照りつけるので参ったが、武佐までもう少しと頑張って歩く。  泉川の交差点を過ぎると、商工会の看板と店名を見るが、店らしいものは見あたらない。 水道屋や電気屋といった工事関係の仕事をしている家のようである。 
西福寺の地蔵堂は、弘法大師のゆかりのもの、とあり、細かい説明があったが、小さくて読めなかった。 
汗をかきかき、武佐宿の入口にあたる 牟佐神社 に着いた (右写真)
牟佐神社で少し休憩をとり、武佐宿に入って行った。 

(ご参考)  『 御代参街道 』 
御代参街道は、多賀から伊勢への近道で、八日市や日野を経て東海道の土山宿に続き、伊勢や多賀大社への参詣道である。  退位した天皇(上皇)が伊勢神宮や多賀大社に御参りに行くならわしになっていたのが、何時ごろからか、貴族に命じて代参させるようになり、また、大名や家臣たちもそれをまねて御参りするようになったので、そう呼ばれるようになったのである。  また、近江商人が伊勢方面へ商いに出かけるのに使用した道でもあった。 

(ご参考)  『 金 堂 』 
『 江戸幕府領だったが、貞亨弐年(1651)以降、大和郡山の領地になり、元禄6年に陣屋が置かれた。  町割は条里制を基礎に、寺や民家により集落が形成され、周辺に農家が集まり、東側に大城神社が祀られた。  湖東平野を代表する農村集落で、加えて、近江商人が築いた意匠の優れた伝統的建造物群として、平成十年十二月に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。 』(町教育委員会)

(ご参考)  『 大城神社 』 
社 伝 によると、
『 西暦621年頃、推古天皇の御世、厩戸皇子大臣が小野妹子に命じて金堂寺を建立した時に、それの護法鎮守のため、東部にあたる大城の地に社檀を設けたのが始まり。 嘉応弐年(1170)に現在地に社殿を移転した。 文亀三年(1503)には、地頭那須与一の末裔が金堂修理と社宇の加造を行っている。 佐々木氏が観音城を築城してからは、守護神として神田も寄進されたが、織田氏との戦いで度々兵火にあい、佐々木氏の没落とともに、衰退した。 江戸時代に入り、大和郡山領や柳沢氏の陣屋ができ、奉行による例祭が行われ、明治になり県社になった。 』 という神社である。

武 佐 (むさ)宿 

下川本陣跡 武佐宿は、宿場の東はずれの牟佐神社の隣に、高札場があったようで、武佐小学校の卒業生が十数年前に書いた案内板がその旨を表示していた。 
武佐宿には一部に古い家は残るが、本陣や脇本陣などの建物は残っていないが、 右側にある下川本陣の門構えは当時のものといわれる (右写真)
江戸天保年間に著された、中山道宿村大概帳によると、
『 武佐宿は、八町二十四間(900mほど)の町並みで、本陣1、脇本陣1、問屋2、旅籠が二十三軒で、家数は百八十三軒、宿内人口は五百三十七人だった。 』 とある。
中村屋 本陣跡の四辻を右折すると、八幡町への道である。  江戸時代の八幡町には朝鮮街道が通り、商人の町として多いに賑わっていた。
それに対し、武佐宿は、交通の要(かなめ)に位置していたのだが、八幡町の賑わいとは異なり、ひっそりとした町だった、とある。  現在、同じ近江八幡市に属するが、今も静かなたたづまいであることに変わらなかった。  旧本陣前にある料理旅館・中村屋は、近江路で唯一、現在も営業を続ける旅籠である (右写真)
脇本陣の跡地は、地元公民館に利用されていた。 また、郵便局は、伝馬所の跡である。 
宿役人平尾家 この付近には古い建物が残っている。 その代表が、創業して四百年以上たつ商家の
大橋家である。  宿役人だった 平尾家 の建物も残っていた (右写真)
その先の交差点を左折するのが、八日市、永源寺を経て伊勢へ通じる八風街道である。 
四辻角に 、「 いせ三な口ひの八日市場 」 と、刻まれた 「 八風街道追分道標 」 が残っ
ている (右下写真)
また、法華宗と浄土宗との間で争われた、 「安土問答」で有名な 安土浄巌院 へ行く道の
追分道標 道標もあった。  ここで、街道からはずれて、長光寺に寄ることにした。 
長光寺は、昔は 武佐寺 と呼ばれていたようで、 東関紀行 に、 「 ゆき暮れぬれば、むさ
寺といふ山寺のあたりにとまりぬ。 」 と、書かれている。 長光寺になったのはいつか分
からないが、このあたりを 長光寺村 といったことを考えると江戸時代ごろなのだろうか? 
街道から左に入り、踏み切りを渡って左折すると、工業団地があり、その先の右側に寺の
入口があった。 
長光寺 長光寺は、 「 足利尊氏は後光厳天皇を奉じて、武佐寺に逃れた 」 と、太平記にあるので、昔はかなり大きな寺院だった、と思われるが、今は小さな建物だった (右写真) 
  寺の御本尊は聖徳太子の持念仏といわれる、千手観音である。  また、境内の ハナノキ はかなり大きな木で、春先には葉に先立って花が咲く珍しい木である。
「東関紀行」 の著者は、  「 まばらなるとこの秋風、夜ふくるまゝに身にしみて、都にはいつし かひきかえたる心ちす。枕にちかき鐘の聲、曉の空に音づれて、かの遺愛寺の邊の草の庵の寢覺もかくやありけむと哀なり。 」 、と秋の暮の寂しさをつづり、
 『  都いでゝ   いくかもあらぬ   今夜だに  片しきわびぬ   床の秋風   』 
武佐駅 と、詠んでいる。 
今日の旅はこれで終わり、近江鉄道の武佐駅へ行った (右写真) 
武佐駅では、長浜から来たという大きなリックの人とおしゃべりができた。 
中山道を歩き始めてから、約1年になるが、久しぶりに多くの中山道を歩く人に出会った、
といっても、8人であったが、平日でも月曜日だったせいだろうか? 
帰りは、米原で富山から来た特急に乗り、名古屋に戻った。 快速と30分しか違わないが、
冷房が快適なのと、車内販売でビールが飲めたので、疲れがとれたことが大変良かった。

(ご参考)  『 安土浄巌院 』 
浄巌院は、織田信長の命により、天正六年(1578)に開かれた浄土宗の寺院で、平安時代製の阿弥陀如来像や本堂(阿弥陀堂)などは国の重要文化財に指定されている。  法華宗と浄土宗との間で争われた、 「 安土問答 」 で有名である。

(ご参考)  『 武佐寺(長光寺) 』 
長光寺は道路から奥まったところにあるが、その途中におびただしい「石仏群」がある。 隣の工場を造成したとき、地中から掘り出されたものらしい。 「太平記」 に、「 足利直冬、桃井直常らが京都に迫り、足利尊氏は後光厳天皇を奉じて、武佐寺に逃れた 」 と、いう記述があるので、当時の武佐寺は、かなり大きな寺院であったことが想像できる。  前述の大量の石仏群と合わせて考えると、寺の大きさが納得できそうである。 敷地の大部分は工業団地になってしまい、武佐寺の跡は確認できないが・・・ 
それにしても、現在の長光寺は小さな建物だった。


平成16年5月


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