
蕨宿から板橋宿へは二里十町(約9km強)の短い距離であるが、途中に戸田川が流れている。
幕府は、江戸を護るため、戸田川に橋を架けず、舟渡しだった。
板橋宿は中山道の最後の宿だったので、江戸に入る人は、ここで泊まり、身なりを整えて江戸に入った。
江戸を旅立つ人を見送りに来た人は、飯盛り女を相手にして遊んで帰る人もあとをたたなかった、という。
平成18年10月28日、浦和宿から蕨宿を訪れ、板橋宿へ向って歩く。
中山道の残る区間は、蕨宿から板橋宿を経て、日本橋までであるが、四月の同窓会で、
東京に出てきた時、板橋宿から巣鴨の間を歩いたので、それ以外を歩けば終了になる。
蕨宿の江戸側入口というか、出口は、道の右側のポケットパークになっている。
江戸時代には、天王社、牛頭観音が祀られていた、とあるところである (右写真)
少し歩くと、この道は、国道に合流してしまった。
板橋宿へは、ここから二里十町(約9km強)の距離だが、この先、戸田橋までの間で、
中山道が
残っているのは、本町交叉点近くから下戸田一丁目と、戸田渡船場跡碑と菖蒲川
に出る短い区間だけである。
錦町一丁目南交叉点を過ぎると、戸田市に入った。
蕨警察入口交叉点の50m手前の左側のマンション駐車場の大きな木の陰に、小さな祠
(ほこら)があり、庚申塔が祀られていた (右写真)
交叉点で反対側に渡り、道の右側を歩くと、なにが祀られているのかは分からないが、
小さなお堂がある。 車が行きかう国道を見ながら歩き、下戸田二丁目で、道の反対側に
移った。
本町交叉点の手前に、斜めに左に入る道があるので、その道を歩く。
道の左側の下戸田ミニパークには、歴史の道中山道の案内板や石のオブジェなどがある。 中山道は、このあたりは鉤型(かぎがた)になっていたようである (右写真)
旧中山道であるこの道は、下戸田一丁目交叉点で終わってしまった。
江戸時代には、鉤型になっていたところで、ここから交叉点を越え、斜めに、本町一丁目に向かっていた。 今は、その場所にマンションなどが建っていた。
中山道は途切れているので、マンションの脇の道(下前公団通り)を歩いた。
途中で右折し、国道に出て、本町一丁目交叉点を越えて歩くと、川岸三丁目までは、国道が旧中山道である。
本町一丁目交叉点を右折した先には、JR埼京線の戸田公園駅がある。
歩いて行くと、川岸三丁目の交叉点に出た (右写真)
交叉点手前の右側にあるつつじ幼稚園は、江戸から四里目の一里塚があったところで、園内(南西角)に、貞亨弐年と刻まれた庚申塔があるはずだが、生憎、土曜日で幼稚園は休園。 確認することは出来なかった。 日本橋までは、残り16kmということになる。
江戸時代には、川岸三丁目交叉点のあたりは、土手になっていて、中山道は、ここから
南東に向かっていた。 現在で言えば、中山道は、川岸3丁目交叉点の手前から斜めに
なり、現在の川岸二丁目を左折してきた道を横断して、菖蒲川を渡るコースだったのである。 旧東海道は、区画整理により、道そのものはあとかたも無くなり、道のあった後には住宅が密集している。
致し方ないので、川岸二丁目交叉点の先の商店街を左に入り、右側四つ目(?)の車の通る大きな道を右折し、菖蒲川に架かる川岸橋を渡った (右写真)
江戸時代には、この川岸橋と右側に見える曲尺手橋の間に、橋が架かり、右側の住宅地になっているところに中山道が通っていた。 今は反対側の戸田渡船場跡碑までの僅かな
区間しか中山道は残っていない。
川岸橋を渡り、戸田橋東交叉点の手前にある右側の狭い道に入ると、
中山道分間延絵図にも、記されている戸田地蔵堂がある。 戸田市最古の木造建造物といわれる建物で、正徳三年(1713)の銘がある半鐘や享保十六年(1731)の庚申塔が残されている (右写真)
戸田地蔵堂の裏側には、水神社(すいじんしゃ)があるのだが、ここから入れる道がないので、街道まで戻り、その先の戸田橋東交叉点を右折して、少し歩いて行くと、右側に水神社があった。
水神社の創建は不明だが、付近の人々の氏神的な存在で、古くは荒川端にあった。
境内には、水神宮・船玉大明神 と、彫られた、舟型の石が置かれている (右写真)
石碑には寛政八年と刻まれていた。 神社から見ると、正面は車道、奥に荒川の高い堤防が見え、その手前は歩道になっている。
街道に戻り、戸田橋東交叉点を右折すると、正面に荒川の堤防が見える。
車道を越え、石段を上っていくと、遊歩道に出て、その先に見えるのが荒川である。
荒川は、江戸時代には、戸田川と呼ばれていた。
今日は土曜日なので、静かに釣り糸をたれる人、子供と走る人など、遊びに興じる姿が見られた
(右写真)
戸田渡船場跡の石碑はこのあたりにあると思って、川縁に降りたが、石碑は見つからない。
戸田川は、幕府は江戸を護るため、橋を架けず舟渡しだった。
戸田の渡しは、天正年間(1573〜1591)にはあったといわれ、天保年間には、十三隻、五軒の河岸問屋があった。
栄泉の木曽街道六十九次、蕨駅戸田川渡の絵では、川向こうに松林が見え、舟に人馬が乗り終え、船頭が棹で舟を出そうとしている姿が描かれている。
大田南畝は、その時のことを、 「 明はてぬるまにやどりを出て、元蕨をこえ堤村をへて戸田川を舟にてわたる。 この川上は入間川にして末は隅田川なり。 」 と記している。
堤防まで戻り、下の車道の方を見ると、車道の先の民家の前に、石碑と案内板が建っていた。 案内板には、渡し場は戸田橋より100m下流にあったが、明治八年(1875)、戸田川に橋が架かり、渡しは廃止された、とあった (右写真)
ここで埼玉県と別れることになるが、埼玉県に入ったところで、偶然、国土交通省大宮国道
事務所が発行した、 「 中山道ウォーキングマップ 」 を手にいれた。
街道四百年を記念して平成十四年に作られたものだが、中山道を特定するのに、役に立った。 いただいた観光案内所のおばちゃんにはお礼を申しあげたい。
荒川堤に座って、下を見ると、右側に戸田橋、左にJRの鉄橋が見えるが、そのあたりに、渡船場があったのだろう。
中山道を延々歩いてきた人達は、江戸を目前にして、戸田川でどのような感慨をもったのだろうか?? そのような感慨を否定するよに、モーターボートが爆走していった (右写真)
荒川を渡るため、江戸時代には、舟渡りをしていたところを、小生は、戸田橋を歩き、渡っ
ていく。 戸田橋は、最初に明治八年(1875)に木橋が架けられ、大正元年(1875)には木橋土橋に、そして、昭和七年(1932)に鉄橋になった。 現在の鉄橋は四代目にあたる。
自動車を横目に見ながら歩く。 歩道も自転車がやってくるので、のんびりしていられない。
橋の中央で、東京都と板橋区の境界を示す標識が現れた (右写真)
ここから東京だ!! 中山道は、百三十五里二十四町八間(約534km)と、東海道より41kmほど長い。 その道を既に500km以上歩いてきた。 しみじみよく歩いたなあ!!と思う。
始めた動機は娘に連れられての妻籠宿への訪問。
妻籠宿の古い佇まいに感動し、いにしえの歴史が残る木曽路を歩いてみようと思ったのが六十五歳になる半年前である。
木曽路は四ヵ月で終了したが、妻や娘に残りを歩いたらとすすめられ、中山道の踏破を決意
し、小生のひとり旅が本格化したしたのである。 とはいえ、桜や紅葉の季節は写真撮影に
没頭するため、中山道を歩くのは寒いときか、暑い季節になりがちであった。 それでも、一年後には京都三條大橋に到着。
その後が遅々として進まない。 信濃路に入り、上諏訪宿までは順調だったが、そこから軽井沢までが時間がかかった。
行こうとした時台風が来たり、積雪で危険だと家族に止められたりした。 若ければ強行したのだが、年をとっては家族の声に逆らえない。 気がつくと三年半の月日が経っていた。
日本橋まで16kmと書かれた標識が現れ、日本橋まで手が届くところまできた (右写真)
ところで、江戸はどこからということであるが、江戸の領域には、定説はないようである。
江戸所払いを受けた場所が、千住、新宿、品川と板橋の宿場外であったことを考えると、中山道の場合、板橋宿までが、江戸ということになるのではないか?!
東京側の方が、河川敷が広く、サッカーをやっている光景や遠くにゴルフ場も見えた。 橋を渡り終えても、国道をそのまま歩くと、新河岸川に架かる志村橋が見えてきた (右写真)
なお、手前の舟渡交叉点を左に行くと、埼京線浮間舟渡(うきまふなど)駅がある。
江戸時代の中山道は、荒川を舟渡りした後、河川敷を直進し、JR東北上越新幹線、埼京
線を横切り、戸田緑地を越えた先で、国道17号と合流していた、というが、その跡はたどれないので、国道を歩く。
三軒家を過ぎると三叉路になり、国道は交番前で左にカーブしている。 左に蓮根川緑道とあり、子供のモニュメントが置かれていた (右写真)
蓮根(はすね)川は、武蔵野台地北端のハケから始まる小河川であるが、環八の工事で埋められたり、その他の区間も暗渠化が進められた。
江戸時代の様子は分からないが、丘陵からの水が、浮間に向って流れていたようで、蓮の名が付くことからすると、下の方は沼沢の湿地帯であったことが考えられる。
モニュメントは、暗渠化で散歩道になったことを
記念して、つくられたのであろう。
今度は二軒家(坂下2丁目)である。 中山道が開通する以前は、二軒くらいか家がなかったということか? 次いて、志村坂下交叉点である。
志村坂下の信号を過ぎたら、右側のホンダカーズを見ながら歩く。
この間、見るべきものは一つもなく、全てが歴史の中に埋もれてしまっている。
中山道は、ホンダカーズの反対側にある左に入る道を行く (右写真)
これが僅かに残る中山道で、住宅街の細い道であるが、約500m残っていた。
やがて、環状8号線に出た (右写真)
環状8号線というから大きな道と思ったが、予想に反した。
江戸時代の中山道は、環状8号線と国道17号線を斜めに突っ切るようにして、国道17号線の左側から右側へとぬけていた。
道路工事で、すっかり変っているので、まず、横断歩道で、環状8号線を渡る。
横断歩道橋の先に、小さくカーブする道があり、その傍らに、地蔵堂があった。
どうやら、この短い細い道が、中山道の名残のようである。
石の地蔵には、安永四未と、年号が刻まれ、念仏講中とあった (右写真)
旧中山道の続きは、国道17号の向こう側にある中古車販売店と三角型のビルの間にある
道である。
道は見えているが、交差点や横断歩道はないので、渡ることはできない。
しかたがないので、引き返し、交叉点まで戻った。
横断歩道橋で、国道17号線の反対側に渡り、左折して、国道17号を日本橋方面に歩き、先程確認したバッカスの看板のある道に入った (右写真)
ここは少し分りずらい。 この狭い道が中山道で、ここから志村坂上まで残っている。
少し歩くと、少し下り坂となり、都営地下鉄三田線のガードをくぐる。
このあたりは江戸時代、板橋と蕨をつなぐ間(あい)の宿であり、志村名主屋敷や立場茶屋
などがあり、大名の休憩や戸田の渡しが増水で利用できない時の控えとして利用されて
きた。
昭和三十年代までは、旧街道の面影を残っていたというが、都会化の進展で、そうした面影は残っていなかった。
道はカーブし、三叉路にでて、右から左に向って上り坂になる道に合流する。
道は石畳に整備されていて、清水坂の碑が建っていた (右写真)
この坂は、江戸から京都へ向うとき、最初の急坂で、隠岐殿坂、地蔵坂、清水坂というように、時代とともに呼び名を変えた。 江戸時代には、江戸のどこからも、富士山を見ることができた。
中山道は北西に進むので、富士山は当然のことながら、左側にしか見えない
が、右に曲がる坂の一部の場所で、富士が右側に見えたので、右富士と、呼ばれて、有名
だったところである。 今では、建物が密集し、高い建物が多い東京では、富士を見ること
は不可能になってしまった。 坂を上ると、二又に出たので、左折する。
道の途中の右側に、馬頭観音石碑があった (右写真)
民家の植え込みの一角に木株があり、その右側に祀られていた。 木の株は金属で被せて
あったので、当時の並木であったのかも知れない。
その先はトの字の道になっていて、中山道は右折である。
この角の右側に、庚申塔と道標が建っていた (右写真)
右側の庚申塔は、万延元年(1860)の建立のもので、左側面に、「 是ヨリ富士山 大山道 」、
下側に、 「 練馬江一里、柳沢江四里、府中江七里 」 と、あり、練馬、柳沢(西東京市)、
府中への距離が、示されている。 左側の道標は、寛政四年(1792)のもので、正面には、
「 大山道 并ねりま 川こえ道 」と、刻まれている。 富士山 大山道とは、霊峰富士山
と神奈川県の大山に通じる道で、ここは、中山道と富士大山道が分岐する追分だった。
道は、右そして左と曲がっていく。 坂を下ると、左側に白い変わった建物の志村坂上交番
があり、志村坂上の信号交差点にでた。
国道17号に出ると、道の反対側の高台に、総泉寺がある (右写真)
江戸時代、ここには大善寺という曹洞宗の寺院があった。
八代将軍、徳川吉宗が、このあたりで鷹狩をした時、この寺に立ち寄り、境内に湧き出す清水を誉め、本尊の薬師如来に、清水薬師と命名した。
江戸名所図会でも紹介されていて、信仰と憩いの場所として賑わったが、昭和初期に総泉寺が移転してきて、大善寺と一緒になった。
総泉寺の境内の奥に庭園があり、薬師水があるが、清水坂はここからきているのだろう。
坂上交差点に戻ると、右の通りに沿って志村坂上の商店街が拡がり、飲食店もあった。
国道を下ると、志村一里塚交叉点で、名前のとおり、歩道橋の側に、一里塚が現存していた (右写真)
志村一里塚は、日本橋から三里目の一里塚で、両側に、ほぼ完全な姿で残っているのは稀で、都内では北区西ヶ原のものと二ヶ所のみである。
国の史跡に指定されていて、現在の榎は三代目だというが、わりと大きく育っていた。
志村警察署を過ぎ、しばらく行くと、左側に、南蔵院という古い寺がある。
戦国時代の建立で、庚申塔や馬頭観音など、多くの石仏が祀られていた (右写真)
泉町交差点で、右側から高速道路の橋桁が現れ、国道17号線を覆いかぶさった。
泉町交差点から少し歩くと、左側に入れる道がある。 国道と分かれて、左に斜めに入って行く道で、右側に交番があるが、この道が旧中山道である。
中山道は、この先、板橋宿を経て、巣鴨まで残っている。
板橋宿は環状7号を越えたところにあるが、今日はここで終えることにした。